日本初の地下鉄を生み出した「早川徳次」−−その紆余曲折の生涯を追う【後編】
〜〜鉄道痛快列伝その4 東京地下鉄道創始者・早川徳次〜〜
鉄道史の中で、もしこの人が出現しなかったら、日本の鉄道はここまで発展しなかったろうという〝キーマン〟がいる。早川徳次(はやかわのりつぐ)もそのひとりであろう。
今も「地下鉄の父」と慕われる早川徳次。地下鉄の将来を100年以上も前に予見し、先頭に立って日本初の地下鉄を造り上げた。現在の地下鉄路線網の充実ぶりを見れば、その功績は計り知れない。後編は、ライバルとも言える五島慶太との関係や晩年について追る。
*絵葉書は筆者所蔵、写真は筆者撮影および東京メトロ、地下鉄博物館提供
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【早川徳次の生涯⑦】先進的な技術が数多く採り入れられた
日本初となった浅草〜上野駅間の地下鉄路線。当時としては斬新な技術やサービスが多く取り入れられている。それは根っからの鉄道マンらしい徳次の創意工夫が感じられる。振り返っておこう。
導入した車両は1000形で1927(昭和2)年に日本車輌製造で10両、1929(昭和4)年に汽車製造で11両の計21両が製造された。地下鉄車両として今では常識となっているが、車両すべて鋼鉄製の不燃車両だった。当時は台車や床下機器を除けば木造というのが当たり前だった時代で、その先進性に驚かされる。車両の色は黄色。地下でも良く見え、また明るく感じさせる色の採用で、さらに安全への配慮もあったのであろう。
さらに、日本の車両としては初めて間接照明を採用している。照明のまぶしさを乗客に感じさせない工夫だった。
1000形は側面に3つの扉が設けられている。この扉は当時としては珍しかった自動扉だった。当時は手動扉が当たり前の時代だった。自動は珍しかったこともあり、扉が自動で開閉するその動きに戸惑う乗客も多かったようだ。ほかにも内装は鋼板に木目焼き付け印刷を施していた。要は木目調の内装だったわけだ。今でも十分に通用する内装で、その凝り方に驚かされる。
つり革にはリコ式吊り手と呼ぶ、バネで上へ跳ね上がる方式が採用された。利用するときには乗客が、上部から引いて使うものだ。筆者も子ども時代にこのつり革を見た覚えがあるが、バネが戻る際に乗客にあたって負傷、眼鏡を壊したり、バネ部分に指が挟まれたりと、トラブルが起きたことから、1960年代中盤には消滅している。
運行設備や駅の設備にも最新の技術が取り入れられていた。例えば開業時から使われていたのが「打子式自動列車停止装置」と呼ばれる装置である。列車の追突事故を防ぐために取り入れた装置で、列車が赤信号を見落として進行すると、自動的に非常ブレーキがかかって列車を停止させる装置だ。今で言う「ATS」の導入である。当時は、こうした安全装置を取り入れていた路線は稀だった。すぐれた装置で、銀座線では開業後から1993(平成5)年まで実際に使われていたそうだ。徳次はこうした、列車の安全にも非常に気を使ったことが分かる。
利用者への対応も凝っていた。例えば、日本初の自動改札機(回転式改札口)が料金授受に使われていた。機械に10銭硬貨を投入すると、目の前の十字型の木製バーのロックが外れ、1人のみ入場できるという仕組みだった。切符の発行、そして授受という作業は大変である。そこでこうした機械を導入したのであろう。かつて現場で切符切りの体験がある徳次だけに、何とか省力化できないかと考えたのであった。
現在、この自動改札機のレプリカが、地下鉄博物館と上野駅の改札口横に展示されていて見ることができる。
【早川徳次の生涯⑧】ネーミングライツや直営ストアを生かす
徳次は、現在の鉄道各社で取り入れている工夫もすでに採用していた。例えば駅の名前に企業名を入れること。いわゆるネーミングライツだ。1932(昭和7)年に開業させた区間で「三越前駅」という駅名を付けている。三越百貨店の駅前だということがすぐに分かる駅名である。
このネーミングライツは三越側からの申し出だったのだが、企業の駅名をつける代わりに、駅の設営費用を全額負担してもらった。当時としては非常に珍しい駅の造り方でもあった。
地下鉄だけの収益にとどまらず、多角的な経営にも乗り出している。例えば1929(昭和4)年、浅草に直営の地下鉄食堂を備えた雷門ビルを設けた。翌年には、上野駅構内の2階地下道に日本最初の地下商店街「上野地下鉄ストア」を開いた。地下鉄ストアは、その後に日本橋や新橋などにも設けている。
利用者にとっては、行き帰りにぶらりと立ちよって気軽に買い物ができるわけで、なかなか目の付け所が鋭かったことをうかがわせる話だ。
【早川徳次の生涯⑨】新橋駅まで延伸が完了。そして次へ
1927(昭和2)年に上野駅〜浅草駅間ではじまった日本初の地下鉄路線は、徐々に路線区間を延ばしていく。まずは1930(昭和5)年1月1日に上野駅〜万世橋駅(仮駅)1.7km区間が開業した。1933(昭和6)年の11月21日に万世橋駅(仮駅)〜神田駅間の0.5kmが開業し、仮駅だった万世橋駅が廃止されている。
地下鉄延伸という事象のみを追っていくと、浅草駅〜上野駅間開業後の徳次の人生は順風満帆だったように思う。ところが、人生それほど甘くない。特に人の一生には時代背景や、経済の動きという〝重し〟に大きく影響されることがある。
日本初の地下鉄が誕生したころは、ちょうど世界経済の転換期でもあった。1929(昭和4)年から翌年にかけて世界は恐慌に包まれ、日本では昭和恐慌と呼ばれる時期に入る。
1930(昭和5)年11月に神田駅まで路線を延伸させたものの、東京地下鉄道は資金繰りに苦しんでいた。暮れまで資金繰りで東奔西走していた徳次だが、どうにもならなかった。最後の手段として郷里の地方銀行の東京支店長宅に駆け込んで融資をお願いしたとされる。大晦日に無事に融資が受けることができて、寸でのところで倒産を免れるといった経験もしている。
その後に「地下鉄融資団」が結成されたこともあり、路線の工事は無事に進められることになった。
1932(昭和7)年、4月29日には神田駅〜三越前駅間の0.7km、12月24日に三越前駅〜京橋駅間1.3kmが開業。さらに1934(昭和9)年の3月3日には京橋駅〜銀座駅間0.7kmが、6月21日は銀座駅〜新橋駅間0.9kmを開業させている。徳次53歳のことだった。ロンドンではじめて地下鉄に出会ってからすでに20年の月日が流れていた。
現在、銀座線は浅草駅〜渋谷駅間を走っているが、徳次は将来的に新橋駅と品川駅間に路線を造ろうとしていた。その夢が叶ったならば、銀座線は浅草駅〜品川駅間を走っていたかもしれない。また、そのまま地下鉄の路線造りが順調に進んだならば、それこそ「地下鉄王」となったかもしれない。しかし、徳次の前に立ちふさがった男がいた。
【早川徳次の生涯⑩】新橋駅で五島慶太と競り合いが始まった
東急グループの創始者とされる五島慶太(ごとうけいた)である。五島の人生は徳次の人生をなぞるような道をたどっている。元々は教師を目指し、教壇にも立ったのだが、性に合わなかったようで、辞めてしまう。そして鉄道院へ。徳次が地下鉄免許を申請したころのことで、このあたりですでに接点があったようである。
後に鉄道院も退職、当時、渋沢栄一が進めていた田園調布を宅地化するために予定された鉄道路線計画に、阪急電鉄創始者の小林一三に請われて参加するようになる。実業の道が水にあったのだろう。その後は辣腕を発揮して、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄、玉川電車などの会社をまとめあげ東京横浜電鉄、のちの東京急行電鉄(現・東急電鉄)を造り上げていく。
この五島慶太が地下鉄の将来性を予感したのか、「東京高速鉄道」という地下鉄の会社の経営に乗り出したのである。1934(昭和9)年9月5日に会社設立、1939(昭和14)年1月15日に渋谷駅〜新橋駅間を開業させた。
「東京高速鉄道」は五島慶太が仕切った会社らしく、車両などは実用一点張りで造られている。最初の車両は100形だったが、電装品はグループ会社の東京横浜電鉄と共用、室内灯も白熱灯、車体は鋼製ながら、床は木ばりだった。対して、電動機は東京地下鉄道の1000形にくらべて多く搭載。そのため走行性能に優れていた。このあたり五島の実利を重んじる性格が見て取れる。
五島は新橋駅で相互乗り入れをすることを徳次に持ちかけたが、徳次には先発組としての意地があったのだろう。頑として聞かなかった。
そのために「東京高速鉄道」の新橋駅は、開業時に「東京地下鉄道」の新橋駅と一枚の壁を隔てた場所に設けられた。乗客は乗り換えるためには地上に出て、再び地下へ入るといった不便なことになっていた。
徳次と五島は似ているようで、性格は真逆だったようだ。乗り入れに関して何度も対面したが、互いに妥協することはなかった。新橋駅の壁を取りのぞき、線路をつなげれば互いの線路をすぐに走れるように造られた電車だったのだが、話し合いがまとまることはなかった。
【早川徳次の生涯⑪】追われるように会社を去った徳次だったが
徳次は京浜急行電鉄(当時は京浜電鉄と湘南電鉄)へ将来、新橋駅〜品川駅間の地下鉄路線造りを一緒にやらないかと持ちかけ、五島の乗り入れを阻止しようとする。
対する五島は東京地下鉄道の株の買い占めに走った。敵対する鉄道会社の株を買い占めるのは、五島の常套手段だったが、そんな五島についたあだ名は〝強盗慶太〟。力で敵対されては徳次もたまらない。
ついに、徳次も話し合いに応じて1939(昭和14)年9月16日には東京地下鉄道と東京高速鉄道との直通運転が開始されたのだった。東京高速鉄道の開業後8か月間使われた新橋駅ホームは、その後使われなくなっている。現在も残っているものの〝幻のホーム〟となり、旧線路は留置線として、またホームは未公開(見学会が行われることもあり)となっている。
直通運転が行われるようになったものの、2社はいろいろな面でいがみ合い不都合なことが生じていた。そこで、当時の鉄道院監督局鉄道課長だった佐藤栄作(後の首相)が仲裁に乗り出した。1940(昭和15)年6月に両社に仲裁案が提示され、社長に就任していた早川徳次は東京地下鉄道を去ることになった。59歳のことだった。
実は、この仲裁案には裏があった。五島も東京高速鉄道の役員を辞めたのだが、それは一時的なもので、また戻れると解釈できるような文言が含まれていた。一方で、徳次が辞めるにあたって、そうした文言は含まれていなかった。後世から見ると仲裁策にはめられたといって良い。では五島が得したかといえば、そうとも言えなかった。
1941(昭和16)7月4日には帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立されて、東京地下鉄道と東京高速鉄道の運営は、営団に継承されてしまうのである。営団地下鉄は国と東京都が出資した団体だった。徳次、五島ともに国と東京市の策にしてやられたわけである。両者痛み分けといった結果になった。
地下鉄をわが手で造った早川徳次は社を追われる形になったが、社員からは非常に慕われた経営者だったようだ。追われた翌年の1941(昭和16)年5月には新橋駅に重役、株主、社員有志の寄付を集めて造られた胸像が立てられている。寄付金は胸像造りには足りなかったが、〝東洋のロダン〟と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫もその思いを感じて制作したとされている。1977(昭和52)年には地下鉄開通50周年を記念して銀座駅のコンコースに移されている。
早川徳次によって始まった日本の地下鉄の歴史。東京には現在、東京メトロの路線195km、東京都交通局の路線が109km、のべ304kmの地下鉄路線が延びている。また全国の主要都市に地下鉄路線網がはりめぐらされている。
地下鉄の父と称される早川徳次がこの繁栄ぶりを知ったとしたら、どう思ったであろうか。
最後に徳次の晩年に触れておこう。59歳で東京地下鉄道の社長の座を去った徳次は、この年に緑綬褒章を受章している。そのわずか2年後の1942(昭和17)年11月29日、61歳の若さで逝去している。故郷に若者たちを育てるために「青年道場」の建設を目指していたさなかだった。
初の地下鉄開業という大事業を成し遂げた男の最後としては、あまりに悲しく、寂しい終わり方だったように感じる。
【information】
地下鉄博物館(東京メトロ東西線・葛西駅下車)では3月13日(日曜日)まで「早川徳次 生誕140周年記念展」と題し、〝地下鉄の父の軌跡〟を様々な資料とともに紹介している。興味をお持ちの方は訪ねてみてはいかがだろう。金曜日限定だが14時30分〜「『東京地下鉄道工事乃状況』で振り返る日本初の地下鉄建設」の特別映画上映会も開かれている。
*文中の敬称略 *参考文献:「地下鉄誕生 早川徳次と五島慶太の攻防」/中村建治(交通新聞社)、「地中の星」/門井慶喜(新潮社)
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