野間口徹、作品に出れば出るほど感じる恐怖「この先、仕事が来なくなったら」
サラリーマンや学生で込み合う「天下一品 八幡山店」。自動ドアが開き、スウェットの下にチェックのネルシャツを着た野間口徹が入ってきた。その飾らない姿は、多くの客に自然ととけ込んでいた。【写真あり】「このラーメンは、僕の栄養ドリンクです」と嬉しそうに食べ始める野間口徹/東京・八幡山「天下一品 八幡山店」にて「今も撮影現場でスタッフさんにスルーされることがあります。一般の方と間違われるみたいで、出演する舞台を両親が観たとき『あんた、後半出とらんかったね』と言われたこともありました」と笑う。 駆け出しのころ、八幡山や上北沢の区民集会所を借りて舞台の稽古をしていた。「稽古後はここに来て食事。だから20年くらいのおつき合い。僕はここのラーメンを栄養ドリンクと呼んでいます。疲れたときに食べると俄然、体力がつくんです」■役者が足りなくて舞台デビュー 故郷の福岡を離れて長野県の信州大学に入学した野間口。「センター試験の結果だけで入れる大学を探したら信州大学があって。長野は住みやすかったですね。水は美味しいし、なにより星空が素晴らしかった。隠居したら長野に住みたいと思っています」 演劇との出会いは大学3年生のときだった。「学内上演された舞台に、とてもキラキラ輝いてる先輩が出ていて『この方のお手伝いをしたい』と思い、裏方での参加を希望。そうしたら『役者が足りないから』と出演することになって。いきなり初舞台ですね。 演じることに興味がなかったわけではないので嬉しかったですけど(笑)。 上演後、周囲が『よかったよ』とほめてくれたんです。『よかった』の前に『初めてにしては』という前提がつくんですけど、僕は大いなる勘違いをして、『進む道は役者しかない』と思い込んでしまいました」 時代は「就職氷河期」だった。そのことも俳優になる遠因となった。「同級生もなかなか就職先が見つからず、『面接の弁当が高級弁当からファストフードになった』『交通費が出なかった』と暗い話ばかり。そこで親に『30歳まで遊ばせてほしい』とお願いしたら意外にもOK。長野から上京して劇団オーディションを受けました」 だがオーディションは連戦連敗。「役者に向いていないのかな」と悶々としながらアルバイトに明け暮れた。家賃3万円のアパートは風呂なし。服を着たまま流し台で体を洗うこともあった。服を着ていたのは「服も一緒に洗えるから」だった。「ある日、演劇をやっているバイト先の先輩が『暇ならコントをやらないか』と誘ってくれました。僕は『やります!』と即答。小劇場の役者10人くらいが参加した企画コントを経て、演出家から『動きやすい3人組を立ち上げよう』と言われました。それが今も活動を続けるコントユニット『親族代表』です」 この活動を野間口は「笑いの多い芝居をやっているニュアンス」と表現。コントの「シビアな間の取り方」は演技に生きているという。両親と約束した30歳目前に待望の初CM出演。次第にドラマや映画の出演依頼が増えていった。「それでも35歳まではバイトで稼ぐ給料のほうが多かったですけど」