左手首の耐えられない軽さ:スマートウォッチなしで過ごした1週間から見えてきたこと
ことの始まりは、手首に小さなブツブツとした発疹が現れたことだった。ある日いきなり赤く腫れ出したかと思うと、かゆみが襲ってきたのだ。ハイキングで何か怪しいものにでも触れたのだろうか?
結局、発疹は手首以外の部分に広がることなく、やがて消えてしまった。そこからまたスマートウォッチを着ける生活に戻ったのだが、それも束の間、手首には再び赤い発疹が現れ始めた。
もはやスマートウォッチ中毒だった
そんなわけで、これまで何年もの間、何らかのBluetooth対応端末を左手首に着けてきたにもかかわらず、スマートウォッチなしの生活を送るようになった。
炎症の原因はいまだにわからないが、勝手に原因を予想をするのも無責任な話だろう。それに当時は、ガーミンのスマートウォッチか「Apple Watch」、ブレスレットを、代わるがわる身に着ける生活をしていたのだ。
もはやアクティヴィティ・トラッキングは、中毒のようなものになっていた。
もちろん、そうして集まった情報に興味があるのは自分だけだ。それなのに、ジョギングも、ハイキングも、水泳も、サーフィンで乗った波の本数も、繁華街の散歩も、自分の手首で記録されていないと無価値であるかのように感じてしまうのだ。
とはいえ、こういったアクティヴィティトラッカーの価値は、それに要する労力に必ずしも見合っているとは言えない。それぞれ専用の充電アダプターがあることにはうんざりするし、やたらと頻繁に充電しなければならない。
いったい何のために、わざわざそんな努力をしなければならないのだろう? ただ歩数を数えるためだけに?
考えれば考えるほど、まるで腕時計型「たまごっち」を思わせるこの端末と距離を置く必要性を感じるようになった。そこでスマートウォッチに別れを告げることにしたのだ。
ところが、すぐに元の生活が恋しくなってしまった。
手首で未来が脈打っているように感じたあの日
ウェアラブル端末の関係が始まったのは、2011年のことだった。
当時はモーショントラッキングとBluetoothチップの普及によって登場した現代版歩数計「Fitbit Ultra」と「Jawbone Up」が大流行していた。そして、あるときJawboneについての記事を書くよう依頼されたのをきっかけに、このウェアラブル端末の虜になっていったのだ。
エラストマー素材でできたこの小さな端末で、いずれは歩数の計測とお粗末な睡眠測定以上のことができるようになるのだろうか? ユーザーが数カ月で飽きてしまうこともなくなるのだろうか? そもそもウェアラブル端末の測定値は正しいのか?
ちなみに2013年のある期間、実際に4種類のアクティヴィティトラッカーの測定歩数をスプレッドシートにまとめて比較してみたことがある。複数の端末を着けて同じ距離を歩いてみたら、ばらばらの計測値が出るのではないかと思ったからだ。結果は予想通りだった。
長らく噂されていたアップルのスマートウォッチが2015年に登場したとき[日本語版記事]、先行レヴュー用の端末を入手するためにニューヨークへと飛び、発売前のApple Watchを手にするなりサンフランシスコに舞い戻った。帰りの飛行機では、まるで自分の手首で未来が脈打っているような感覚に陥った。
確かに、空港では搭乗券として機能するはずのApple Watchがうまく読み取られないハプニングもあった。それに、この手首できらめく未来の光も、実はほかのウェアラブル端末の緑色光学式センサーと同じものなのかもしれない。